京都市南区の物件一覧
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物件名:唐橋芦辺町
- 中古一戸建3LDK3,880万円(税込)
- 京都市南区唐橋芦辺町3番17
- JR京都線西大路駅まで徒歩19分
- 土地面積:公簿84.05㎡ / 建物面積:91.08㎡


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- 南区について
- 江戸時代の南区域は、葛野郡、紀伊郡、乙訓郡の村々から成り立っていました。明治7年にこれらの村は統合され、さらに明治22年の市制施行により南区域は東九条村、吉祥院村、上鳥羽村、七条村の一部と大内村の一部、久世村から成り立っていました。昭和6年までに久世村を除く各村が京都市下京区に編入され、昭和30年9月に下京区域のうち、おおむね当時の国鉄東海道本線以南を分区して南区が誕生しました。さらに昭和34年には桂川以西の乙訓郡久世村を編入して、現在の南区となりました。
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- 地勢
- 京都市の南部に位置し、おおむね東は鴨川で東山区と伏見区に、西は西京区・向日市に、北はJR東海道線で下京区と右京区に、そして南は伏見区と接しています。ほぼ高低差のない京都盆地上にあり、海抜の最高は東九条河原町付近で28メ-トル、最低は上鳥羽塔ノ森東向町付近で14.58 メ-トルとなっています。区の西部を桂川が、東端は鴨川が、また、区内の中央部を西高瀬川が流れ、桂川に合流する河川の多い区です。
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- 平安京
- 南区の九条通より北側の地域は平安京の南端にあたります。平安京の朱雀大路は、都の中央を南北に貫く道幅80mの大通りでした。この朱雀大路と九条通が交わる位置には都の正面玄関である羅城門が置かれ、その東西には、都にただ二つしかない寺院として、東寺と西寺が同じ規模で左右対称に配置されました。
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- 毎月21日の弘法さん
- 現在は、残念ながら羅城門も西寺も失われましたが、弘法大師(空海)によって更に発展した東寺は、京都でも数少ない平安京創建当時の遺構として今にその姿を伝え、平成6年に世界文化遺産にも登録されました。特に、高さ55mの五重の塔は日本一の高さを誇り、その美しい姿は京都のシンボルとして広く知られています。また、毎月21日には、「弘法さん」として親しまれている市が開かれ、境内は多くの人々で賑わっています。
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- 都の玄関
- 現在の南区域は、平安京の造営以来、都の玄関として重要な役割を果たしてきました。九条通より南の鴨川と桂川に挟まれた地域は淀川の水運と都を結ぶ陸路の要衝となったほか、豊かな水に恵まれた近郊農業が発達し、現在まで、良質な京野菜の供給地として知られています。一方、桂川より西側の久世地域は、平安京の造営以前から長岡京の一部として発展してきた地域で、区画整理等の進展で近代的な姿に生まれ変わった現在も、平安京以前の非常に長い歴史を誇る史跡が点在しています。
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主な旧街道
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- 鳥羽街道
- 九条通の羅城門跡より千本通を南へ浄禅寺(じょうぜんじ)を経て小枝橋を渡り、淀の宮前橋(みやまえばし)付近(伏見区)に至ります。平安京造営時に造られ羅城門から一直線に伸びていて、「鳥羽作り道」とも呼ばれました。江戸時代には、溝を掘ってレールの役割を果たした「車石(輪型石)」が敷設され、大坂や瀬戸内などからの物資を京に搬入する牛車などで賑わいました。「車石」の一部は上鳥羽小学校と陶化小学校に残されています。現在、この街道の役割は少し東の国道1号が担っています。
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- 西国(さいごく)街道
- 羅城門から西へ、桂川を渡って向日町、長岡京、大山崎を経て西宮まで至り、山陽道につながる主要街道でした。九条御前(くじょうおんまえ)交差点から西に斜めに入る細い道が旧街道で、桂川では久世橋ができる明治まで、石原から渡し船を利用しました。久世橋西詰を南に入った分岐点には「右西国街道」と記す石標があります。現在はその座を国道171号に譲っています。
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- 竹田街道
- 現在の京都駅八条口付近から南下、勧進橋で鴨川を渡って伏見港に至り、水路で大坂につながった街道です。江戸時代には鳥羽街道と並んで「車石」が敷設された主要道でした。現在も、一部は国道24号として幹線道路です。
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ゆかりの人々
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- ライバル伝説
- 羅城門をはさんだ東寺の空海と西寺の守敏のライバル伝説は、数かずのエピソードとなって今も語り継がれています。神泉苑での雨乞い合戦、矢取地蔵の逸話など、いずれも空海の勝利で終わっています。東寺と西寺は、ともに国家の鎮護を願って建立されたものです。しかし、東寺は真言宗総本山として栄え、かたや西寺は100年余りで廃れてしまいました。ふたりのライバル伝説はそうした東西の寺の明暗を語っているのかも知れません。それとともに、「弘法大師」信仰を日本各地に拡げた真言宗の民衆救済的な面によって、このようなライバル伝説が人々の中に長く生き続けてきたのでしょう。
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- 『十六夜(いざよい)日記』と阿仏尼(あぶつに)
- 阿仏尼は、わが子冷泉為相(れいぜいためすけ)と夫為家(ためいえ)の正妻の子との相続争いの訴訟のために鎌倉に赴き、このときの紀行文が『十六夜日記』となりました。中世文学を代表する作品の一つになっています。また歌論書「夜の鶴」も書いており、為相に始まる冷泉派歌学の礎を築いた人物ともいえるでしょう。大通寺にはその墓といわれる阿仏塚があり、また直筆と伝えられる和歌(軸装)も残されています。
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- 菅原道真誕生の地
- 文人政治家の家に生まれた菅原道真は、政敵藤原時平(ときひら)に敗れ、延喜3年(903)失意のうち太宰府で亡くなります。やがて都では次々と災いが起こり、道真の怨霊によるものだと恐れられ、道真は天神として祀られるようになりました。現在の吉祥院天満宮は、もともと菅原家の邸宅があった地です。その周辺には、道真のほか、道真の父是善や祖父清公ゆかりの史跡なども多く、道真の霊廟(れいびょう)もここに建立され、天満宮になったといわれます。
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- 羅城門の鬼と源頼光・渡辺綱(つな)
- 源頼光(「ライコウ」の呼名で親しまれています)は清和源氏の始祖源経基の孫にあたり、文武に優れた武将として知られています。またその家臣で武勇の誉高い「四天王」の一人、渡辺綱が羅城門で鬼に兜を掴まれ、暗闇のなか刀を抜きざまにその腕を切り落とした、という有名な逸話も残っています。この羅城門の鬼や大江山の酒呑童子、土蜘蛛など、頼光と綱たちが平安の都で活躍する「妖怪」退治の逸話は、当時の人々の畏れや願いを今に伝えています。
