~竜安寺町家~
- 昭和初期に建築された数寄屋風の住宅
数ヶ月前購入していた開発用の宅地に、昭和初期に建築された数寄屋風の住宅が遺っているいう話が工務の社員から伝えられました。
その建物は、物件を購入する数ヶ月前に私も見ていたのですが、前栽の木々が生い茂り、表側からでは建物の様子をしっかり見ることが出来ませんでした。
もともとこの現場は建て売り用の敷地として購入する予定だったので、その上に建っている建物に意識がいかなかったのも事実でした。私はその情報を受けて、さっそく現場に行きました。
現場に行くと、なんと元所有者の大学の先生がいまだ建物の中におられて、荷物の搬出をしていました。敷地が500坪もある、日本庭園に囲まれた広大な住宅で、大手の織物会社の社長さんが贅をきわめて作り上げた数寄屋づくりの住宅だということでした。建築されて75年ほど経っており、ここ十年はあまり補修もしていなかったようで、所々建具や外見が無惨な様相を呈していたのですが、さすがに会社経営の傍ら茶人のような風流な生活をされていた方の住居で、建物内部のこだわり方は尋常ではなく、建具や床の間、天井造作等一つ一つに焦点をあてていくと、まるで宝探しをするかのような驚きと興奮を感じさせる建物でした。
そこにあった建具類を、現在再生中の三千院の民家に充分使えると思いながら眺めていると、突然、元所有者の大学の先生が、
「この建具類は、すべて古道具屋に売り渡す手配になっている」
というのです。建売用の敷地であろうとも、本来は建物ごと購入したので、建物の従物である建具は当然当社のものだと言えるのですが、我々のような実業界にいる人間と学問の世界にいる方の常識の範囲が違うようで、私はそのことに充分配慮しながらこう切り出しました。
「実は、現在大原三千院の方で民家の再生をしているのです。ここの建具は民家の再生をするのにぴったりの建具なので、出来れば是非私共の方に譲っていただきたいのですが。」
こうお願いすると、元有者の方もこれらの建具が散逸するのではなく、ある特定の建物にまとめて使われるということが気に入られたのか、すぐに商談に入り、お互いが納得するような価格で取引が成立しました。
- 昭和初期に建築された数寄屋風の住宅
これらの建具の中に、飛び抜けて美しい杉の一枚板の引き戸が二枚あり、幅広の重厚な襖と、そこに付いている取手口の彫り物がすばらしく美しいものでした。また、まだ十分に使える葦簀の建具が10枚近くありましたし、床の間の地板は一枚板の松と檜で、特に、松の木の色合いが美しく、なんとかこの地板を三千院の床の間の地板に使いたいと思ったほどです。
こういう考えもあって、大学の先生の気の変わらぬうちに早く話を完結したかった私は、早速会社へ連絡し、小切手を取り寄せると、約束した額面を小切手で支払い、建具を元所有者の所有意識から完全に私の方へ移す手続きをしました。
私はそれでも不安で、最も美しいと思われた杉の一枚板の引き戸と襖は、人を手配してすぐに三千院の現場へ運ばせたのでした。
その後、すぐこの素早い対応が正解だったという事件が起こりました。
1週間くらいの時間をおいて、再生メンバーと一緒に龍安寺の現地で待ち合わせ、どの建具を持って行くか話し合うことになっていたのですが、当日現場に行くと、いまだに元所有者の方が建物の中にうろうろされており、私を見つけると早速呼び止めて申し訳なさそうに言うのです。
「実は、私と契約する前に建具類を売却する口約束していた古道具屋に、別の人に売ったという話をしたら、その古道具屋が怒りだして、どうしても1階の居間にある床の間の松の地板だけは持って行くといって聞かなくて、仕方なく松の木の地板だけはあげました」。
私は、この地板だけはなんとしても三千院に持って行きたいと思っていたのに、ちょっとした隙を狙われて、最も必要な地板を持って行かれたのには愕然としました。しかし、今更返ってくるわけでもないでしょうし、そこはスパッと諦めて、まだ残っていた欅(ケヤキ)の地板だけで我慢することにしました。
さて、泣く泣く松の木の地板を諦め、落ち込む気持ちを奮い立たせて、建物に取り付けられてある様々な建具を再生メンバーと一緒に調査したところ、次々と新しい発見をしました。
今回の調査には、京都市のTさんも同行しており、このTさんが特に声を上げたのが玄関天井の剛天井です。私はこの仕様に気が付かなかったのですが、彼はすぐにこの仕様がいかに精緻で費用がかかっているか感情的に話されていました。
私たちの調査に興味を持ったのか、元所有者の方も私たちに付いて回られていたのですが、裏庭を見渡すことが出来る和室に来ると、裏庭と室内を隔てるガラス張りの木の建具を指で指しながら、
「このガラスを見て下さい。今のガラスと違って面に歪みがあるでしょう。これは現在では作ることが出来ないんですよ。」
と言われ、みんなで凝視してガラスの面をみると、なるほどガラスの面全体が現代のガラスのようにつるっとしていなくて歪んでいました。以前、岩倉具視が隠棲していた岩倉の庵を訪ねた時、その庵の裏庭に面したガラス戸のガラスもこのように歪んでいて、ガラス戸の横の説明書には、
『このガラスは岩倉具視が明治天皇から賜った板ガラスである』
という説明がありました。なるほど考えてみれば、この時代の板ガラスは、職人が1枚1枚板状に伸ばしてガラス板にしていたのですから、面の歪みもあるし、価格が高くなるのもわかるなと合点したのです。早速、この木製枠のガラス戸は、三千院の2階正面に建てつけられることに決まりました。
この数寄屋の家には、実に精緻を凝らした書院もありました。これを三千院に移設することも考えましたが、議論の末、三千院の民家はただの民家で、数寄屋の家とは違うということで、今回は泣く泣く諦めました。
この家にある建具は、一応全部三千院の現場に運ぶことになり、使うもの使わないものの選択は、それからにしようということになりました。龍安寺の数寄屋造りの家には、檜材で作られた厚みのある階段が組み込まれていました。この程度の家
ですから、階段も当然一枚板の重厚感のある、見た目にも美しい材を使用しているのですが、再生委員会の千綿君がその材をめざとく見つけ、
「これは三千院の現場で使わないとしても残すべきだ。」
と言い張り、結局階段も残すことになりました。
~解体~
解体は、7月14日頃から始めました。
今回は建具だけでなく、柱の根継ぎ等にも使う檜で無節の柱や梁や敷居、束石なども大原の民家に運ぶことになりました。
これらを傷めないように取り出すのに、生きコボチという手法を使うことになったのですが、通常であれば10日位で終える工事も、工程表を見ると、なんと8月22日までかかるという大変手間のかかる作業になりました。また、解体を始めてみると、当初想定してなかった材で、再生可能な建材が至るところから出てきて、そのたびに解体屋の手を止めて残すかどうか検討をしたのでした。
今回、龍安寺の解体をお願いした業者は、建設を同じくする業者として、三千院の民家再生という事業が気に入られたのか、損得抜きで手伝っていただきました。
木造建築の可能性 2001.1月 完成
大原三千院民家再生