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完成間近

【5月30日(日)シートの養生を取り除く】

大原三千院民家再生事業
養生シートが取り除かれた外観

5月26日土曜日に建物全体を覆っていた養生シートを取り除くというので、私は午前中に必要な仕事を処理し、午後一番、その足で大原の現場に駆けつけました。
すでにシートは取り除かれ、建物に固定されている金属の足場は、半分ほど解体を終えているところでした。
白壁と弁殻の柱からなる真壁の外壁はすでに完成の状態でしたが、シートに覆われている間、建物全体のイメージは湧きませんでした。シートが取り除かれ、弁殻の木部と漆喰の白壁が午後の陽を浴びて鮮やかに浮かび上がるのを見て、ようやく民家の修復が九分方仕上がっているのを確認したのです。

この民家を修復してみようと思い始めた頃、これから起こるだろう様々な問題に思いが募り、修復を愉しむという気分にはならなかった。修復前の民家はあまりにもボロボロで、無惨で、大原の景観にあった建物でも、文化財でない民家にこれだけの資金をつぎ込む価値があるのか、自分の判断は間違っていたのではないか、また不用なものを造っているのはないかという思いに気分を暗くしていました。
修復に取りかかっても、予想外の工事があまりにも多く、その割に、軸組を完成させるまでの工事は向こう映えがせず、地を這うだけのような事業に法外な資金を投入するようで、不快な気分が延々と続いていたのです。

この気分が少し変わり始めたのが内部造作に取りかかった頃でした。
軸組の補修が完成し、壁を漆喰で白くし、木部に弁殻を塗り、外観、見た目にようやく往年の民家のイメージが取り戻せた時です。屋根を葺き替え、光に輝く銅製のトユが取り付けられ、養生シートの隙間からかいま見た外観にようやく完成した民家のイメージを見つけることが出来たとき、気分は180度転回したといっても良いだろうと思います。

龍安寺の住宅に使用されていた木製の建具が窓一面に取り付けられ、今では造ることが出来ない、平面に歪みのある板ガラスが陽に反射して大正時代の香りを放ったとき、私は合理的な計算では予測できない喜びを感じるようになりました。そして養生シートが取り払われ、建物全体の姿が現れたとき、やっと私は民家の再生を試みてよかったと心から思えたのです。

その日、私は2時間ほど建物を眺めながら時間を費やしました。何枚か建物全体の写真を撮り、新たに造作された内部も隈無く点検し、仕上げの内容が想像以上であるのに満足しました。

後で聞いた話ですが、当初民家の再生を淡々とこなしていた大工や現場監督も、仕上がりが見える頃になると、徐々に職人の本能のようなものが現れ、少しでも良いものを、自分の仕事として誇れるものを造りたいという思いで、熱の入った仕事ぶりになっていったということでした。

【6月3日(日)和室に建具が入る】

大原三千院民家再生事業
龍安寺から持ってきた建具
大原三千院民家再生事業
美しくなった1階和室

現場に行くと1階の和室と内縁との間に、雪見障子の建具が入っていました。

この建具は龍安寺の数寄屋建築から持ってきたもので、80年近く星霜を経ているものなのに十分に機能に耐えるのです。しかし、さすがに木部は茶褐色に変色していました。建物の寸法に対し建具が少し小さかったようで、寸法を合わせるのに大工が建具の下に木を重ねて寸法を調節したようで、その痕が木の肌の色の違いでくっきり浮かび上がっていました。
建具は腰まで、外が杉の一枚張り、内が杉の網代という大変凝った建具で、

「今、新しく造らせたら幾らするのかわからない」

という貴重なものでした。この建具に洗いをかけて、その後、接ぎ木との色あわせの為、彩色されます。

玄関には、すでに等持院にあった松の木の敷き台が取り付けられており、長年使い込んだ地板の表面にカンナをかけると、元の、松の木の色が鮮やかに現れて格別なもの見えました。

また、各部屋の入り口には、そこで使用される板戸や襖が倉庫から運び出され、立て掛けられていました。もう完成間際です。
後は内壁を土壁で塗るのに下地にラスカットを張るばかりになっていました。

【6月3日(日)玄関の引き戸】

大原三千院民家再生事業
決定した玄関の引き戸
大原三千院民家再生事業

前から玄関の引き戸をどのようなデザインにするか現場監督の中西君と議論をしていました。

中西君は民家の特集で見た、しゃれた格子戸を主張したのですが、私は反対でした。なぜなら、この民家は大原という田園に囲まれた地域にある建物で、農家ではないが、その景観を考えると少し野趣味があった方が良いように思えたのです。

そこで、私たちは大原の民家にどのような玄関引き戸が使用されているのか確かめてみることになり、二三日かけて周辺の家々を調査することにしました。

私は大原だけでははなく、足を伸ばして静原や八瀬の民家も調べることにしました。結果、これらの民家は遠景で眺めていると従来の建築をそのまま世襲しているように見えるのですが、近くまでゆくと、ほとんどの家々の開口部はアルミサッシに取って代わられていました。また木質の引き戸であっても、特に凝った引き戸などはなく、きわめてありふれた引き戸が使用されていました。
これらの現実を総合して思うに、民家をそのままの形態で使用している人々も、民家を美的な建築として扱っている訳ではなく、日常生活を優先させているので、開口部に不具合が生じると、価格的に廉価なアルミサッシの建具に切り替えるという選択をしているようです。私たちは互いに少し落胆する思いで調査報告等をしたのでした。
いずれにしてもそろそろ玄関引き戸のデザインを確定しなければ完成に間に合わなくなります。
翌日中西君が自分なり玄関引き戸を幾つかデザインしたものを持参してきました。その中には私が強く主張した全体が骨太の、大原の景観にあうような素朴なデザインがありました。
また、彼自身が主張する格子の玄関引き戸もありました。その折衷案のようなものもありました。
ここで私は妥協しないほうが良いと思い、骨太の案で決定するよう指示をしたのですが、その時中西君の顔が心なしか色あせて見えたのです。

【6月24日(日)大工工事】

大原三千院民家再生事業
完成した檜風呂
大原三千院民家再生事業
職人さん達の作業の様子
大原三千院民家再生事業
土壁作り

ようやく大工工事も終わりに近づき、後は新しい建具と檜風呂の到着を待つだけになりました。その間大工は、敷地の奥にある蔵の床の張り替えと、蔵の庇を受ける柱を付け替える工事をしていました。

ここの民家には大層立派な蔵が付いており、この民家に貴重品を保存する蔵のようなものが必要だったかどうか疑わしいのですが、その当時、蔵がある家というのは一種のステータスのようなものでした。それで、資力のある民家はこのように必要でもない蔵を造ることに固執したのです。この蔵に立派な瓦葺きの庇が付いており、その庇を支える柱の根元が腐食していたので、庇自体が大きく歪んでいました。その柱を付け替える作業を今日ようやく終えたばかりで、大工の仕事は空きが出てくるようになりました。

現在の工程は内壁の土壁を塗っている最中で、これも2週間程度で終わってしまいます。これが終わるといよいよ最終で、土間造りや作庭が待ち受けているだけで、ほとんど工事は終了段階に入ります。

大工の態度も一点に集中した工事ではなく全体を眺めながら、やり残した仕事について少しずつ手を入れて行くという少し間延びのした仕事方法に変わっています。

最近、私はあまり人と話さなくなっており、大工さんとも挨拶程度の言葉を交わしただけで現場を眺めていたのですが、ようやく仕事が終わりに近づいた大工さんの顔にこの現場を離れる寂しさが漂っていました。

この現場は生きコボチの解体から数えると1年数ヶ月かかっています。 その間大工さんも解体の手伝いから、軸組の補強等、1年数ヶ月べったりとこの現場に付き添ってきたのです。

工事の内容も従来の新築住宅ではなく、100年前の民家を再生するという新しい試みでした。当然、大工としての技術力も問われ、何十年か前、親方に弟子入りした頃の技術も駆使しなければならなかったでしょう。

最近の新築住宅の建築に慣れてしまった大工さんなら、民家の再生のような煩わしい仕事は避けたいところなのでしょうが、今回、民家再生に協力してくれた大工さんは古き良き時代の技術を親方から学んでいて、それが生かせる仕事ということで大喜びで参加された方たちです。

この民家再生は、彼らの力無くしては到底ここまで完成度を高めることは出来なかったと思っております。

民家が完成に近づき、ようやく形のあるものが目の前に現れる嬉しさもあるのですが、なにより大工や現場監督、電気工事関係者や左官屋まですべてが、古き良き家づくりを思い返しながら、家を造ることの本質的な喜びを分かち合えたことが、我々の民家再生の一大成果ではないかと思うのです。

  • 施工実例 大原三千院民家再生
  • 施工実例 2001.1月 完成

    大原三千院民家再生

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